旅に出る前の私の状況
まだ、私が独身の20代の頃の話。
私は、グラフィックデザインの専門学校を卒業後、デザイン会社に就職しました。
仕事はそれなりに楽しかったけれど、毎日最終電車に間に合うように駅まで走る、時々徹夜もあるような激務な生活に、数年で挫折しました。
もともと才能がなかったことも受け入れざるを得なかったし、デザイナーとしての仕事を辞めることに後悔はありませんでした。
余談だけど、今から40年前に専門学校に通っている頃、いつかは自宅の2階を事務所にして独り立ちして仕事をしようと思っていました。
なんでその頃にそんなことを考えていたのかは、不明ですけど…。
デザイナーから離れた私は、そんな夢もなくなって自分のこれからに迷っていました。
若かったからか、そこに悲壮な思いはなかったけれど、どんな方向に向かっていこうかという展望も何もなかったな、と思います。
そんな時、私の状況を知っていた友人から、「大きな会社から独立して、個人で会社を立ち上げた社長が人材を探しているんだけど、話をしてみない?」と声をかけられました。
最初はそれほど期待もせず、とりあえず会ってみようと思って、その提案を受け入れました。
数日後、社長夫婦とお会いしてすぐに盛り上がり、結局、商業施設の企画・施工管理をしているその会社の企画部に就職。
社長の打ち合わせに同行させてもらい、企画の仕事を体験し、鍛えられ、任せてもらえるほどになりました。
もちろん学ばなくてはいけないことはたくさんありましたが、多くの案件に関わらせてもらい、忙しくもやりがいのある毎日でした。
都内だけでなく地方にも行って打ち合わせをし、調査をし、数字を出し、仮説を立て、アイディアを練り、企画案を作って、それを企画書として仕上げ、プレゼンする。
今思うと、私の特性にとても合っている仕事だったのだと思います。
人数が少ない小さな会社だからこそできたことも多く、期待に応えられるように無我夢中で仕事に向き合い、本当に充実した日々でした。
卒業後のさまざまな生き方
そうやって仕事に没頭していたある日のこと。
グラフィックデザインの専門学校で一緒だった藤原寛一氏が、オーストラリア一周の旅をして、バイク雑誌に載っているという話を友人から聞きました。
会わなくなってから数年、懐かしさからその雑誌を買ってパラパラとページをめくるも、本人の顔を見つけられません。
「おかしいなぁ」と思いながら、今度はもくじで確認して、もう一度ページをめくると…
見たこともない髭面の男がそこにいました。
「誰だ、これ!」
学生の頃は、口数も少なくておとなしい青年だったはずなのに、その時とは全く雰囲気が違います。
どうしてこうなった?
私の頭の中には?マークがいっぱいでした。
その数日後、本人から電話がかかってきました。
「雑誌見たよ! 誰かわからなかったよ…」
ひとしきり話をした後、「久しぶりに会おう」となったのは、自然な流れですよね。
運命を変える再会
数年ぶりに会った寛一氏は…
…
…。
もう、昔過ぎてどんな印象だったか思い出せない。
でも、その時に感じたことは、今も鮮明に覚えています。
オーストラリアの旅の話、次は世界一周をしたいと考えていること。
今何をして、どんなことを思って日々を過ごしているのか、そんな話を聞きながら、ぼーっとこんなことを思っていました。
この人は、地位も名誉もお金もないのに、なんでこんなにキラキラした目をしているんだろう
なんだか知らない生物、宇宙人でも見ているような気分でした。
それから数年後、寛一氏の世界一周の旅に同行して、ヨーロッパを7か月旅した私。
この時には、自分がバイクを運転して海外を旅するなんて、全く想像もしていませんでした。
1991年5月~12月まで、ヨーロッパをふたりでバイクで旅した時のことを振り返っています。
ベルリンの壁が崩壊したのが1989年11月のこと、旅を始めたのは、それから1年半しか経っていない激動の頃でした。
ヨーロッパの様子も今とは大きく違うところもあるでしょう。
旅もバイクも超初心者の私が旅に出るまで、そして、この時はまだ夫婦ではなかった私たちの様子も懐かしい思い出です。