Vol.6 旅の終わりは唐突に

目次

東ヨーロッパという地域

最初にパリに降り立ってから数ヶ月、旅もバイクも初心者の私にも経験値が増え、日々を楽しむ余裕もかなり出てきていたように思います。

特に印象的だったのは、東ヨーロッパ(東欧)と言われていた国々。

ドイツでベルリンの壁が崩れ、西ドイツと東ドイツが統合されてまだ間がなく、さまざまなことが変化の途中でした。

私たちがその時に走った東ヨーロッパと呼ばれていた国々は、ポーランド、チェコスロバキア(現在は、チェコとスロバキアのふたつの国になっています)、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア。

すでにドイツはひとつの国になっていましたが、西ドイツと東ドイツだった場所は明らかに雰囲気が違いました。

どの国に入るのも事前にビザが必要で、国によっては宿泊場所をすべて決めて申請しないといけなかったり、ガソリンを買うためのチケットが必要だったり、逆にその制度は最近なくなった、なんてこともありました。

今のヨーロッパには国境があってないようなものだし、ユーロになって両替の必要もなくなりました。

けれどあの頃は、ビザを取り、両替をして、まずはその国の物価をチェックしないとその後どう動けばいいのかわかりません。

なにしろ、安いんだか高いんだか、それが正規の金額なのか全くわからないのですから。

ルーマニアからブルガリアに入ったときも、まずはどんな感じか見てみよう、と道路沿いにあった小さな食堂で食事をすることにしました。

質素だけれど料理はおいしいし値段も安くて大満足でした。

店を出ると、近くの席で食事をしていて先に店を出た二人組が声をかけてきました。

そして、彼らは私たちに「あの食堂でいくら払ったか?」と聞きました。

どうやら私たちは食堂の店主にぼったくられていたようなのです。

それを知った彼らは、なんだか自分のことのように申し訳ながって、「よかったら自分の家に遊びに来ないか」と誘ってくれました。

こんな時は自分たちの直感を大事にして、行くか行かないかを決めます。

男性の見た目はいかついけれど悪い人ではなさそうだ、と判断してついて行くことにしました。

すると、そこは簡素な小さな家があり、かわいらしい奥さんが迎えてくれました。

トイレは外にある掘っ建て小屋のようなもの、小さな庭にはたくさんの植物があって、その一角には柵に囲われた中に大きな豚が一頭飼われているような、本当に質素な生活です。

けれど、どこも清潔にされていて、夫婦の愛情がたっぷり詰まった暮らしに感じられます。

「あいつ、どうしようもないな、すまんな」みたいな感じで食堂での出来事を謝ってくれ、その埋め合わせにでもするかのように、自家製の果実酒やマッシュルームの炒め物などを次々振る舞ってくれました。

すっかり盛り上がり「泊まって行け」というのを、今日の宿泊地のチェックをもらわないといけないから、と後ろ髪をひかれながら出発したあの日のことを思い出すと、なんだか今でも涙が出てきます。

なんの見返りも求めることなく笑顔で見送ってくれた彼らを思うと、暮らしは質素だとしてもそこには彼らの誇りがあり、充分な幸せがあったのだと感じます。

東ヨーロッパには、ぼろぼろの壁の古き良きヨーロッパの町の風景や、時代を感じさせるものがあちこちにありました。

小さな村の中の舗装もされていない道にはニワトリが自由に歩いていたり、簡素なホテルが消毒液のにおいで充満していたり、スーパーに行っても買いたいものが何もなかったり…

それでも、家に泊めてくれて精一杯のおもてなしをしてくれたり、宿で留守番を頼まれて子供たちと一緒に遊んだり、少し日本語の話せる人がいて驚いたり、親切で優しい人たちとたくさん出会いました。

私はこの時はじめて、物が豊かで、便利で、裕福なことだけが幸せの価値ではなく、幸せとはそれぞれの中にあるのだ、みたいなことを感じ始めた気がします。

仕事だけが生活の中心で、それ以外はお酒を飲むか買い物をするくらいしか楽しみを知らなかった私。

自分が持つ価値観の意識はものすごく狭い世界でした。

それが旅に出て、大きく揺さぶられた。

実際にさまざまなことを見て感じることで、本や映像から知識を得るのとは違い、体感することの重要性というか価値というか、そんなことを強く感じていた気がします。

ヨーロッパが冬に向かう

旅に出る前は、休日は最大10日くらいと感じていて、だから「嫌だったら10日で帰ろう」と思っていた私が、数ヶ月という想像もしない旅の時間を過ごしていました。

最初にフランス・パリに降り立った時には春だった季節も秋を迎え、とうとうイタリアで雪に降られました。

寒さと戦いながら旅を続け、クリスマスの飾り付けが賑やかになってきた頃、ヨーロッパをぐるりと旅してフランス・マルセイユまで来ました。

マルセイユでは、丘の上にあるYH(ユースホステル)に泊まることを決めていました。

そのYHに向かってバイクを走らせていると、地元のバイク少年達が周りに集まってきて、しばらく並走していました。

YHに向かう最後の坂を上る手前で、みんな右側に曲がって行ったので、YHまでの道を教えようとしてくれていたのか、歓迎してくれているのだろうと思っていました。

そこは、お城を改装したようなところで、バイク1台通れるくらい細くゲートが開くようになっていて、そこを入って奥の方の建物の前にバイクを止めました。

かんいちが部屋が空いているか聞きに入って、私もトイレを借りに建物の中へ。

数分後、建物の外に出たら、バイクが1台しかない。

かんいちのバイクが忽然と消えていたのです。

たぶん、あの青年たちですね、歓迎されていたのではなく狙われていたのです。

敷地内だからと安心していた私たちでしたが、実は、どこよりもヨーロッパは盗難が多い。

それも、港町マルセイユは密輸団がいて大物が盗まれて売り飛ばされる危険な場所でもあったのです。

そうして、私たちの旅は、想像もしない形で唐突に終わりを迎えることとなりました。

その後、かんいちはアメリカ大陸を旅する予定になっていたのに、二人で一緒に日本に帰国。

再び旅の準備をして、アメリカ大陸に向かうこととなりました。

旅は再開できたのですが、一番悔しかったのは、写真(その頃はポジフィルム)と、ずっと書いていた日記などが入った荷物も一緒に失ってしまったこと。

それでも、かんいちはそれほど落胆も悲しみもせず、前を向いて次の旅のために行動していました。

もちろん、ショックでないはずはありません。

彼のその前向きな姿勢に、私は「この人に本気で人生を預けてみようか」と思ったのかもしれないな、なんて思います。

きっと、人生には意味がないことなんてないのです。

この旅を体験したことで、私の人生は大きく舵を切ったのだと感じています。

1991年5~12月まで、ヨーロッパをふたりでバイクで旅した時のことを振り返っています。
ベルリンの壁が崩壊したのが1989年11月のこと、旅を始めたのは、それから1年半しか経っていない激動の頃でした。
ヨーロッパの様子も今とは大きく違うところもあるでしょう。
旅もバイクも超初心者の私が旅に出るまで、そして、この時はまだ夫婦ではなかった私たちの様子も懐かしい思い出です。

私の最初の旅の話はこれで終わりです。

旅の出来事は書き出したらいくらでもあるのですが、それは、また機会があったら書いてみたいと思います。

Vol.1~6まで読んでくださってありがとうございます。

藤原かんいちと藤原ヒロコの最初の旅の物語でした。

【旅のデータ】

期 間 : 1991年5~12月(7ヶ月)
訪問国 : 22カ国
(フランス・イギリス・アイルランド・ベルギー・オランダ・ドイツ・デンマーク・ノルウェー・フィンランド・スウェーデン・ポーランド・チェコスロバキア・スイス・オーストリア・リヒテンシュタイン・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・トルコ・ギリシャ・イタリア・モナコ)

旅の記憶

Around the world
実際に私が夫とバイクで旅したルート

藤原かんいちホームページ

お知らせ

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

お役に立ったらシェアしてください
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次